どんぶらこに参加いただいている中村仁美さん、中村かほるさん、中村華子さん、伊崎善之さんそれぞれのメンバーへ、雅楽との出会いをテーマにインタビューをしてゆきたいと思います。雅楽というものに触れたはじめの体験は一体どのようなものだったのか?第一回目は楽琵琶を担当する中村かほるさんに雅楽や楽琵琶との出会い、そして足の怪我を機に原点回帰してゆく現在の心境など、当時の写真なども合わせ貴重なお話をお伺いしました。
インタビュー / 石田多朗、オオルタイチ
イラスト / 益子悠紀
── 楽琵琶との出会い
オオルタイチ(以下タイチ)「かほるさんが雅楽に出会われた時のことについてお伺いさせていただきたいと思うのですが、プロフィールを拝見させていただくと、国立音楽大学在学中に芝祐靖先生[*1]が復曲された「番假崇」[*2]との出会いがきっかけになったと書かれていたのですが。」
中村かほる(以下かほる)「ずっとピアノを弾いていて音楽が勉強したいという気持ちで音楽大学に入りました。ある時、友人達と雅楽の授業を見学にゆき、芝祐靖先生と宮田まゆみさん[*3]に出会い、そこで初めて雅楽の音楽や楽器に触れました。それまでは日本の音楽を経験したことがなかったのですが、とても素敵な先生方と巡り会えたことで、毎週のように授業を聴講し、楽器を習ったり合奏をしていました。それからまもなくして、自分が担当する楽器を選ぶ時に、CDだったと思うのですが、芝先生が復曲なさった「番假崇」を聴いて、なんだかこの曲の琵琶を演奏してみたいな・・と思ったのがきっかけだったと思います。薄明かりがさす、とても暗いところに一人で番假崇を弾いているイメージがふっ・・とみえてきました。今思えば、それは雅楽の演奏というか楽琵琶を弾いてみたいということだったのだと思います。そんなことがあり琵琶を選んだのです。それから数年後に、伶楽舎で番假崇をレコーディングする機会があり、横浜のみなとみらい小ホールで、このことがなんとか実現したわけです。」
タイチ「番假崇に出会われた時の体験が本当にすごいですね。」
かほる「雅楽はアンサンブルが主体なので、琵琶の演奏だけを聴くということは、ほとんど無いのですが番假崇の冒頭部分は琵琶のソロから始まるのです。そのあとに復元楽器などが加わりアンサンブルになってくる。そのような音楽が雅楽の中にもある、ということを知って、・・・やはり琵琶のソロが弾きたかったのだと思います。」
石田多朗(以下多朗)「西洋音楽への気持ちは徐々に消えていったんでしょうか?雅楽と西洋音楽を並列でやる人はあまりいないですよね。」
かほる「概ね、西洋音楽って子供の頃から始めるわけじゃないですか?私は初めオルガンでしたけれど、当たり前のように続けてきて、音楽大学に入ってから雅楽を一から始めるわけで。初めは唱歌[*4]というものから始めて笛を習うのですが、どうしてこの譜面が読めるんだろう、と最初は全然わからなくて、唱歌の譜を読んで歌えるようになるまで一年位かかりました。もう二十歳を過ぎていたので遅かったのですが、芝先生に琵琶を習いたいことをご相談すると、とある神社の雅楽会を教えて下さり、すぐに見学に行ってみたのです。すると宮内庁楽部の先生方がご教授されていました。今まで続けてきた音楽の世界とはずいぶん違うかもしれない、と思いました。先生は男性の方ばかりですし、当時は未だ女性の方が今よりも少ない時代でした。」
── 舞について
タイチ「かほるさんは楽琵琶と合わせて舞楽[*5]もメインとしてやられていると思うのですが。」
かほる「神社へ琵琶のお稽古を見学に行ったときに、先生(山田清彦氏)[*6]が舞のお稽古も教えておられたのです。私はずっと踊りなんて絶対無理と思っていて、全然縁がなかったのですが、舞のお稽古を見学していて、舞もいいな、と思い楽琵琶と一緒にお稽古を始めることにしました。正式な舞楽は、三間四方の舞台[*7]で舞うのですが、当時の私は、神社の例大祭などで舞を舞っていました。お宮の中はそんなに広いところではないのですが、いつも緊張していました。地方の神社や境内の石畳の上で舞うこともありました。時々ベテランの先生方とご一緒する機会もあり、かなりプレッシャーでした。今思えば贅沢すぎる環境でしたね。音大生というとドレスにハイヒール姿で演奏するというイメージを持っていたので、神社での奉納演奏はわからないことだらけでした。装束の着付け、絲鞋(しかい)という履物の履き方もわからないし、袴も履けないし・・。」
タイチ「舞に出会われてから実際に本番で演じられるまでの期間がとても短かったと思うのですが。」
かほる「初舞台は日枝神社(赤坂)でした。三ヶ月くらいでやっと舞を一つ覚えたばかりの頃、秋の仲秋管絃祭の時に抜頭(ばとう)[*8]を舞って下さい、と頼まれて・・。ピアノに例えるとベートーヴェンの曲を譜読みが終わって、なんとか弾けるようになったという段階ですね。装束だって面だって着けたことがない状況なのに・・しかも、こちらの仲秋管絃祭は外国人観光客の方も多くて数百人くらいの観客が集まるのです。」
多朗「なんとか弾ける、というレベルでプロとして人前に立つことはクラシックではなかなかないですよね。その感覚は、雅楽の世界とクラシックの世界でだいぶ違いますね。もっと敷居が高いのかと思っていました。」
かほる「当時は未だ少なかったのかもしれないですね。古典曲と現代曲、五線譜が読めて雅楽器を演奏する人というのは。。
舞楽の方は、ほぼ雅楽会のご奉仕として神社で奉納演奏をするというものでした。お客様に見せるわけではないのですが、女性が装束と面をつけて舞を舞う機会は今より少なくて、肩身の狭い思いをしてがんばっていた記憶があります。」
多朗「伶楽舎の方達はクラシック音楽出身の方が多いですよね。」
かほる「そうですね、音楽大学出身の方がほとんどです。」
多朗「自分も音大にいたので分かるのですが、クラシックと比べると、雅楽の世界はなんだか風通しの良さがあるように感じます。達人でいらっしゃる方たちでさえ、まぁ、やってみましょうか、というフットワークの軽さがあるように感じます。」
かほる「当時はきっと怖いもの知らずだったんだと思います。でも今は怖いです笑。アノころは全て始めたばかりだったので。やりなさいと言われたらやらなければ、という感じで、他に選択肢はありませんでした。すごく大変で何もわからないところから始めて、正直楽しいという気持ちはあまりありませんでしたが、それでもこの頃の経験は大切だったと感謝しています。
私がはじめて正式な舞台で舞わせて頂いたのは、それから何年も後のことでした。伶楽舎のメンバーとしてサントリーの大ホールで還城楽[*9]を舞いました。それも大変でしたし・・舞楽はとにかく大変でした笑」
多朗「舞っている時に楽しいと感じることはあるんでしょうか?」
かほる「楽しいっていうのはないですね。。」
多朗、タイチ「笑。」
かほる「ないというか、舞っている時に面から時折みんなが見えるんですね。それが支えでしたね。舞台でみんなと一緒にいることが大事というか、励みだったり、みんなと一緒でよかったと思っていました。舞台袖で一人で出番を待っている時は、どうして舞を選んじゃったのかな、といつも後悔していました笑。舞台へと歩き始めるまで・・とにかく集中する。いろいろ大変なことも多かったけれど、それでも舞が好きでした。
ただ足を怪我してしまって、舞が舞えなくなってしまいました。2年ほど前になります、突然やってきた予期せぬ出来事でした。今は正式な雅楽の舞台はできなくなっているのですが、休んでいる間に考える時間が与えられました。そして、やはり楽琵琶のソロを弾きたい、という思いに繋がったのです。雅楽を始めて三十年余り経って、突然怪我をして以前の様な活動ができなくなり、立ち止まって考えたら、あ、そういうことね、とようやくやりたいことに気がついたというか。。アンサンブルの機会があればもちろんやりたいですが、これからは琵琶のソロ活動をもっとやらないと、と思っています。」
多朗「雅楽にとらわれずということですか?」
かほる「もちろん。楽琵琶の音楽をもっともっと弾きたいなと思ったので。よく考えれば、体が故障しちゃってできなくなってしまったことは現実なのですが、切り替えて今から何ができるかと考えてみると、まだまだ気がつかなかったことがいっぱいみつかりました。かえって良かったのだと思ってます。」
── 未来予測
多朗「先ほど話されていた暗闇の中で番假崇を弾いているというのは、そのあとあれがそうだったのかな?というのがあるのか、もしくはもう実現されたことってるのでしょうか?なんとなく、学生時代のかほるさんが未来予測をしたのかな・・?と感じました。」
かほる「いいえ、まだできてないですね。これからじゃないかなと思っています。これまで主に雅楽演奏の中での琵琶を弾いてきましたので、これからは楽琵琶の音楽に取り組まないと、と思っています。残された時間も限られていますし。今おっしゃったことで、ふと思い出したのですが、この間3月の“どんぶらこ”のライブで「骨歌」(石田多朗 / あそびに収録)を演奏した時に、石田さんが最初にシンセサイザーでいろんな効果音を使っていたのに実はドキッとして。いつかお伝えしなきゃと思っていたのですが、以前、リサイタルのために琵琶で何ができるかと思い、京都や奈良の神社巡りをしていたことがありました。大津市にある関蝉丸神社・上社・下社を訪ねたときのことです。その中の一社、関蝉丸神社(下社)の立地条件はちょっと変わっていて、国道沿いを歩いてゆくと、線路のすぐ向こうに鳥居があるんですよ。静かとは言えないところなのですが、その時に国道を走る車や電車の音を聞きながら、こんな騒音のような音を取り入れた琵琶の音楽をイメージしていたのを思い出しました。その時の車や電車の音が、あの石田さんのシンセサイザーの音と一致したのです。十数年前にはわけが分からなかったのですが、まさにそれが現実に起きたのです。これはお二人に出会って一緒に音楽を演奏するということを知らせてくれるメッセージだったのかも、こんな風に実現するとは。。と驚きました。」
── 自然に醸し出される音楽
多朗「どんぶらこで今後やってみたいと思っている企画の一つに、野外でのレコーディングがあります。普通、レコーディングをする時は極力周りは静かにして、演奏の部分だけを綺麗に残そうとしますよね。屋外だと鳥や虫の声、風の音が鳴っていて、音楽の前に「場」がありますよね。本来、音楽はそういう特定の「場」で鳴っている、ということが大事なんじゃないかと最近思っているんです。
かほる「場所って大事ですよね。だから秘曲[*10]のアルバムを作るときも、下鴨神社などを何度か訪ねて糺の森を歩きながら秘曲尽くしについて想像していました。ここでどんな音が聞こえていたのだろうとか、当時の文学に書かれているような内容について、どれくらいの距離があるのか、方角はどうだったのか等。。直接それが何に結びつくかわからないのですが、知りたいですよね。いろんな記憶を辿ることは大事なんじゃないかと思って。そんなフィールドワークをしていた時期もありましたね。なかなか昔の琵琶の音のイメージが湧かないということがあったので、古いお寺の天井に微かに描かれた琵琶を持った飛天の姿を見に行って、そこから音をイメージしたり、探していましたね。現在の奏法というよりか、やはり昔鳴っていた音とか、どうやって弾いていたのかということに興味があります。新しいものを”作ろう”という意識で作るのではなくて、自然に醸し出される、そういうのがすごく理想なのです。奇をてらって作っているもの、という意識にはあまり興味がないですよね。難しいですね笑。」
タイチ「そうやって場所を訪ねて、何になるでもないけれどもそうしているうちに醸し出されていくものってありますよね。」
かほる「やはり興味があるところは遠く離れているところでも、何度も行くものですよね。以前は気づかなかったけど、こんなところがあったんだとか、天気も季節も違うし、自然の・・なんていうのかな、木とか花とか咲いているものも変わってくるし。昔の人の方が感性が鋭かったと思うし、小さな音でも遠くから聞き分ける感覚を持っているような。そういうことはすごく感じたりしますね。」
── さらなる琵琶の音世界へ
多朗「かほるさんのソロのアルバムがとても好きなんですけれども、今後新作とか例えば先ほどおしゃっていた昔の音はどんなものだったんだろうとか、どういったことやっていきたいと考えていますか?」
かほる「なかなかまとまらなかったり、タイミングもあるのですが、ひとまず新たな再スタートみたいな感じで考えているので、楽琵琶のソロでプログラムを作ってコンサートができたらいいな、と思っています。だからそれには新しい曲も必要ですし、私は曲を書くことが素人なんで・・。」
多朗「アルバム最後の曲(中村かほる / ゆすら~楽琵琶秘曲と小品~収録 ”~三五~”)、すごく良かったですよ。」
かほる「いやいや、あれは素人なので恥ずかしいから笑。夜な夜なポロンポロンと弾きながら作った感じなので。」
多朗「すーっと風通しが良くて、いいなと。」
かほる「古典雅楽の中での楽琵琶の奏法というイメージがあると思います。私としては魅力がある楽器ですし、それを知るために今ではなくて、もっともっと遡った時代の琵琶の音楽世界だったりとか、それを弾いていた人たちだったりとか、文学を読むのもいいし、その土地に行ってみるのでもいいのですが、そういうところを辿りながら、もっともっといいものが見つかるかな、と思っています。それから、琵琶が日本に辿り着いた頃の中国(唐時代)やシルクロード、さらに西へ向かい古代ペルシャの音楽。そちらの方に還ってゆくというか、海外との交流にも携われたら、という気持ちがあって、難しいことですが、小さな力になれたらいいかなと思っています。また楽琵琶のソロ曲を増やして、小さいアンサンブルなどもできたらいいな、と思っています。新しい音楽です。」
*1.芝祐靖
雅楽演奏家。伶楽舎創立者(元音楽監督)。日本芸術院会員。旭日中綬章
授賞ほか多数受賞。文化功労者。文化勲章受賞。(1935~2019)
*2.番假崇(ばんかそう)
天平琵琶譜「番假崇」は世界最古の琵琶譜。正倉院に収蔵されている古文
書の中から1935年頃発見された。
*3.宮田まゆみ
笙を国際的に広めた第一人者。紫綬褒章受賞。国立音楽大学招聘教授。伶
楽舎音楽監督。
*4.唱歌(しょうが)
雅楽器の旋律を口伝えに歌うこと。
*5.舞楽(ぶがく)
雅楽の音楽の伴奏で舞われる舞。
*6.山田清彦
元宮内庁式部職楽部楽長(1933~2009)。
*7.三間四方の舞台
雅楽の舞台の広さ、三間(5.46m)四方。
*8.抜頭(ばとう)
天平年間(729~749年)に天竺(インド)の波羅門僧正菩提僊那や林邑(
ベトナム)の僧仏哲により我が国に伝えられたといわれている。胡人の子
が親を襲った猛獣を山野に探し求めて仇を討ち喜ぶ様を現した舞であると
伝えられている。舞振りは激しく剛健に舞われる。
*9.還城楽(げんじょうらく)
雅楽曲の中で唯一、蛇の登場する曲である。別名「見蛇楽(けんじゃらく
)」とも言う。蛇を好んで食す西域の人が蛇を見つけて喜び捕らえる様を
舞にしたとの由来がある。舞の途中で「蛇持ち」という役が舞台中央に蛇
を置き、舞人がそれを見つけて喜ぶ舞振りが躍動感あふれ特徴的である。
*10.秘曲(ひきょく)
琵琶の秘曲は「石上流泉」「上原石上流泉」「啄木」「楊真操」。これら
は琵琶の伝承の中で特に重んじられた独奏曲で、楽譜は残されているが演
奏伝承は途絶えてしまった。
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